■SS 僕は、彼に興味がある。 彼は、僕に興味がない。(2015/07/05)
:05+06 05視点
※2015年7月のイベントで発行しました無料配布本の掲載です


上質の酒であれ、目を見張るほど美味な料理であれ、その男の心を捉えるには役不足である。化学反応と数式でそれらを解説してやれば、或いは。……しかし、残念ながら、その道に繋がる伝は持ち合わせていない。
彼と僕との間に通る、賑やかなラインを以ってしても、どうにか出来るとは思えない。……いや、そんなことでどうにかなるのであれば、そもそもこんなことで物思いに耽ったりはしない。
どうにかならないからこそ、一駅の距離が退屈することなく保たれるのだが。

何故自分がそうなったのか正確なところはわからないが、今から数えること十年と少し前になる。
東京の地下を走る新しい路線が開通し、多くの駅が開業し、そのうちの一つとして己が存在することになった。何を言っているかわからない場合は、聞き流してもらって構わない。
まあ、色々あって駅があって。僕の隣は彼だった、というわけだ。
ただ隣のよしみでというだけなら、話は始まらない。個性的な38ある駅の中でも、僕と彼とが何かしら特別ということもないのだが、特別でないからこそ、この話になる。
僕は、彼に興味がある。
彼は、僕に興味がない。
一駅にして数分の間柄、これが永遠に縮むことはないのだけど。それでも僕は、彼に興味を持つことを悪いとは思っていないし、諦めようとも思っていない。でも、ほんの少し何かが変わらないだろうかと、ささやかな期待は持ち続けているのだ。
彼にとって僕が何であるのか、隣駅だという回答以外のものを欲して今日もこちらから、機嫌を伺うようにして笑顔を贈る。
「やあ、調子はどうだい」
「昨日に比べて数分程度、起床が早かった程度だ」
聞かれたことには余程がなければ応えてくれる。ただ、帰ってくる言葉から読み取れる答えまでは、少し遠回りだ。
「ふむ、何か問題でもあったのかい」
「いや、それが……」
何かを続けて話そうとしたのはわかった。しかし、その後に続く言葉がなかなか出てこない様子。
「もしかして、問題があるのかどうかわからないのかい?」
「……そういうことになる、のだろうか」
気難しそうな、レンズの向こうの瞳。眉はしかめられて歪む。
「問題があり、そこから答えを導き出すという行為は常だ。しかし、何が問題であるかという答えを先に得る必要があるというのは、どういうことだろう」
「なんというか、哲学めいているね」
時刻は朝、馴染みの店で美味い牛乳をいただくのが、僕と彼との共通の過ごし方として一番多いパターンだ。定休日以外なら、この形で彼とその日初めての対話をする率が高い。さすがに毎日必ずとは言わないが、それなりに互いで馴染んだ光景だ。
よく冷えた牛乳が喉を通っていく感覚の中、考える。
彼は起床が早かったと言った。つまり、睡眠時間がそのぶん削られたということだろう。少し回りくどい表現をするのは気質であろうから、そこから僅か踏み込んで考えると届く、そうした部分を読みさえすれば難しい相手ではない。
何かしら問題があって、あまり眠れなかったということになるだろうか。日頃何かしらを無駄に難しく考えることのある彼が、改めて睡眠に支障をきたすような何かを考えているとすれば、少し心配だ。
集中力を素直に発揮してしまった場合、彼は基本的にそれ以外を遮断しがちなのだ。子どもの世話をも危うくするほどに至ったことはあまりないようだが、それでも心配になる。
そう、彼は独り身ではない。制度的な観点から言えば独りという形容詞が正しいのかもしれないが、その身だけで暮らしている環境ではない。路線には兄弟関係の駅と共に暮らしているケースもあるようだが、彼のように子どもの面倒を見ている所帯持ちというのは、ほぼ他に例がない。少なくとも、僕が知っている範囲では彼だけだ。
駅でありながら何らか研究もし、子どもの世話をするという特殊な環境に於いては、経験がない故に境遇がわかるはずもなく、自分に出来ることは多くない。
やや冷酷なようだが、僕の興味はあくまでも彼そのものに向いている。ないがしろにしているわけではなく、あくまでも彼があって、その周囲があるというのが僕の視点なのだ。
彼と僕は同じ駅である。故に、彼のことは他人ながら多少なりともわかるものがある。
それ以外のことは……どう足掻いてもわかりようがない。
彼と僕は他人なのだ。
「まあ、さして問題はない。多少睡眠時間に影響が出たとしても誤差の範囲内だと思う。いや、その程度に納めないとならない」
「まあ、そうだね。お子さんに心配させてはいけないよ」
「……そのことなんだが」
うん? これはもしかして、わからない範囲に発生している問題なのだろうか。だとしたら、僕が出来ることはそう多くはないはずで、しかし彼が僕への対話を続けているということは……そこに何があるのだろう。
「やはり、片親というのは……悪影響だろうか」
仕事柄とはいえ、そういう方面の悩みに応えるのは難儀だ。しかし、彼は何かしらの答えを僕に求めたということになる。無碍には出来ない。
飲み終えて空になったビンが置かれ、机に軽い音を立てる。やけに大きく感じるのは、互いに神経を尖らせているせいだろうか。
「悔いているのかい?」
「……わからない。だが、私がもう少し執着を持っていたら、別の過去を選択し未来が変わった可能性は否定出来ない」
「そうだね……でも、それを証明する術はない」
「だからこそ、辿り着けないのだろう。何かしら、決定打を見出せてしまえば、こんなに惑うこともなかった」
数式や公式で定義出来ない事象に対して、恐らく普段なら辿り着ける流れだとしても、迷い惑う今、彼はそこに結びつくために何の式を用いればいいのか、道中で探してしまっている。
「ああ、割とまずい状況に陥っているように見えるかな」
……弱っているのだろう。素直な、しかし単なる感想だ。
僅かにビンに残っていた一口を煽る。だいぶ温くなってしまっていた。
僕と彼は違う。故に、出来ることは多くない。その中でも特に、家族というものを持たない自分には、及ぶものなどないはずだ。わかっていて吐露するということは、問題による影響が想像以上に大きいと考えられてしまい……さて、どうしたものか。
隣人として出来ることを模索する。もう少し詳しく聞けば、何か掴めるだろうか。
それとも、デリケートな点であることを重視し、軽く流してやるべきか。
今の自分に導き出せるのは、ひとまずこの二案だけだ。ゼロかイチか、少し難しい駆け引きになる。普段の彼ならきっと、冷静にいずれかを選ぶ……或いは、もっと優れた解を提示してくるだろうか。
「可能性の話なら、過去はどうにもならないとして……この後出来ることで、という選択肢は多くないように思うよ。失われた箇所を補填するか、失くしたらそれなりの立ち回りをするか、どちらかだ。君は現状、後者でこなしているようだけど、限界が見えるのであれば、前者を検討することになるだろうね」
「そうだな……しかし」
普通の人間であれば、再婚するか否か、ということになる。
彼の妻……元、妻がどういう理由で彼との別離になったのか、現在どうしているのかを知り、語る駅はいない。触れてはいけない傷なのかと思っていたくらいだ。
それを自ら表してくるほどに、彼は弱っているのだとしたら……まずいのではないだろうか。ちょっと眠れませんでしたでは済まされそうにない。
同僚や親友ならこんなとき、酒や食事に誘って聞いてやればいいのかもしれない。質のいい店や、構えのいい店ならすぐに宛を挙げられるのだが……そういうことでいいのだろうか。
それでいい、というつもりで話す相手と選んでくれたのなら、ありがたいような……それでは困る、ような。
僕は、彼に興味がある。
彼は、僕に興味がないのだと、思っているから。
「僕が聞いてもいいのか……わからないけれど。奥様のことを、君が悔やんでいるのであれば」
「いや、そうじゃない」
「……待ってくれ。この話の流れならてっきりそうだと……いや、そうとしか考えられない気がしたんだけど?」
「私が言いたいのは──」
瞬間、目が合った。会話の重さに互いが伏せていた顔を上げたせいだ。
自分がどんな顔をしていたのかはわからない。彼はといえば、酷く寂しそうな瞳だった、ような。
「いや、すまない……とりあえず君が考えているようなことではない、とだけ弁明させてほしい」
「……それは構わないけど、あとは子どもさんの話なら、豊島園先輩にでも」
「それも、なんというか、正しくはないと言うか」
話している相手が僕なのに、彼は酷く言葉を濁している。聞いてほしいのか、そうではないのか。せめて、その答えに繋がる助けくらいはもらえないだろうか。
「相手が僕だからいいけど、他の誰かだったら業を煮やしてしまうところだよ。いいから、ちゃんと具体的に話してごらんよ。そうでないと、妙な誤解を広げるだけだ」
さて、構える準備はした。彼はどう来るのか、来ないのか。

「……久しぶりに、呑みたい気分かもしれなくて、だな」
時々朝こうして共に飲む牛乳ではなく、ということだろう。
「ああ、ええと……相手は僕で良かったのかい?」
「子どもを寝かしつけてからで、時間や距離からして融通が利く相手を他に知らない」
それは、光栄だと受け止めていいのだろうか。
「まあ、いいさ。そういうことなら乗ろうじゃないか」
恐らく今、自分の顔を鏡に映しでもしたら……余裕がなく不恰好に苦い笑みを浮かべているのではないだろうか。笑えているのなら、それだけでも十分かもしれないが、あまり彼に覚えてほしくはない。
小さいながら、酷い我侭だ。
他にあってもおかしくないはずの選択肢を持たないという宣言は、なんだかとても特別に見てもらえているようで、更に欲深くなってしまいそうだ。
隣駅のよしみ、それだけでも十分か。
普段細かにものを言わぬ彼のことだ、他愛のない表現がどれほどの力を秘める羽目になっているのか、気付いてもいないのだろう。尤も、彼が他の駅とどの程度対話出来ているのかという点に、気を揉むほどの狭い心は持ち合わせたくはないのだが。
「ただねぇ……そうなると、あまり深酒も出来ないね」
「そのあたりも含めて、だ」
「随分信頼してもらえてるみたいで、ありがたいけど……」
安易に喜んでもいられない。一方通行を痛感するだけになるのは御免だ。彼が僕に興味がないことを証明する理論を重ねられることになるのだから、臆病にもなるだろう。
「ひとまず、それで一度確認したい。場合によっては、次の手を考える」
「随分慎重なんだなぁ」
「慎重にもなる。失敗しても再挑戦すればいいとは……もう思えない」
ああ、大人の恋はそういうものだ。そうか、彼には再び挑みたい相手がいるのか。しかし先ほどはそれを否定したはずで……どういうことなんだろう。
言葉の裏側、織り込まれた意図を読むのが難しい。そういう相手だとはわかっていても、簡潔な物言いを求めてしまいそうになる。しかし、一駅の距離は縮むものではないのだ。
(縮めたい、とは思っているんだけどねぇ……)
誰の許しが必要でもないが、この思いをどうにかするには、相手の……彼の許しはどうしても必要だ。それを積極的に求めるような野暮が、いや、度胸があればと願うほど純粋でもない。
「わかったよ。じゃあ、他の細かい都合を聞かせてくれるかい?」
「いや、君がいいというところなら構わない、日取りもそちらに合わせるつもりだ」
「……信用してもらってるのはありがたいよ」
「そうか、楽しみにしている」
表情も声色も、そんな素振りを感じさせないものだったが……僕の手元に弄ばれていた空き瓶を自分のものとまとめて持っていく背中を見ると、不思議と笑みが零れた。
(楽しみ、かぁ……)
今自分が抱く気持ちも、同じものだ。まるで、互いの距離が縮まったかのような錯覚さえ覚える。
久しぶりの貴重な申し出だ、安い反応かもしれないが、出来る限りでエスコートしたい。
片付け終えた彼は、やはり表情を変えずに戻ってくる。
「これで、又ゆっくり眠れるようになるといいんだが」
「酒の力を借りないと、というのは、いささか賛同し兼ねる」
酒ではない、と彼は白衣を翻して歩き出した。
「借りるのは、君の力なのだから」
間違いかと思ったが……もう一度聞き返す度胸が、僕にはなかった。